投稿記事
話すことば、書くことば、
2025年8月16日(土)
同一人物から発せられたものでも、「書く」と「話す」ではずいぶん印象が異なるものだなぁということを感じています。
会議や懇親会では、「まぁまぁ、」という感じで、その場をとりつくってまずは角が立たないように流してしまおうとしている、という印象の方の、報告書に対するコメントを読むと、「実は結構引っかかっていたのだな」ということがわかり、しっかり見ていただいているという意味では安心したりします。
藤原新也という、写真家といったらいいでしょうか、この方の本を大学生の時に1冊買い求め、それが今もずっと手元にあるのですが、同名のスマホゲームが発売されていることをテレビCMで見てたまげたことがありました。
手元の本は、その人の文体が好きなこともあり、何度か読んだのですが、この「死」にたいする「生」の本が新たに出版されたことが新聞の書評欄にでていて、買おうかどうか、まずは本屋さんではじめの部分を立ち読みしてみたわけです。
するとこれがずいぶん感じが異なる。本を丁寧に本棚に返しました。解説によると、氏がラジオで話した内容をほぼそのまま文字におこしたもののようです。氏の話し言葉と書き言葉の雰囲気はずいぶん異なるのだなということがわかりました。
しかし本日ちょっと時間ができたときに帯広市図書館によったのですが、開架書棚に藤原新也の本が並んでいて、その中の1冊のエッセイを読んだら、やっぱりかつて買い求めた本に通ずるものがある。この本は読んでみようと思っています。
(仙北谷)