投稿記事
モノでつる
2025年8月29日(金)
私は大学のサイトの自分のプロフィールに、好きなモノとして旅行記をあげています。これは、どこで何を食べておいしかったとか、何がきれいだったとかを教えてほしいわけではなく、そういう普段接することのないインパクトがあって、本人にどう響いたかに興味があるからです。
つまり、外への視野より内に向かうまなざしを期待している。
旅は移動を伴うわけですから、普通は空白の時間ができる。そのときに自身と向き合うのだろうと思います。日常生活と離れているので、日常の雑事から切り離され、考えるスペースにも空きができる。そのときに人は自身と向き合うのだろうと思います。
自分と向き合うのは怖いので、避けたいと思っている人が圧倒的でしょう。意識しているかどうかはわかりませんが。しかし旅先では向き合ってしまう
ま、最近は旅先だろうとどこだろうと四六時中スマホをいじっている人が多いので空白はできないのかもしれませんが。幸か不幸か。
それからすると藤原新也はぴったりなわけです。最新刊がしっくりこなかったのは意外ですが。
往路の飛行機の中で、帯広市図書館から借りてきた藤原新也の2冊目は読んでしまいました。
お兄さんが亡くなって、その弔いのために四国を自転車で巡ったことを中心に、その前後の旅が書かれています。藤原新也はそのたびを、「死者の魂の供養であるとともに自身の魂の供養のため」といっています。
「立派なお葬式を出さないと亡くなった人が成仏できない」というのは、残された人の気持ちが納得いかないからだし、戒名をつけるのも亡くなった人のためというよりは、生きている人が落ち着くためなんだろうと思います。いろんな意味で。
さて、
「これあげるからさ、頑張ってやってくれよ。」
というのは、ありそうな話。これを自分でやっています。
こんなのを出張先で買ってしまった。再来週のシンポジウムはこれでやります。
(仙北谷)